2024年07月24日

金丸 信(かねまる しん) 山梨出身の政治家

金丸 信(かねまる しん)
   1914年〈大正3年〉9月17日 - 1996年〈平成8年〉3月28日
 日本の政治家
 衆議院議員(12期)、副総理、民間活力導入担当大臣、防衛庁長官(第35代)、建設大臣(第34代)。
 山梨県中巨摩郡今諏訪村(後の白根町、現在の南アルプス市)の造り酒屋を営む地主の家で父は金丸康三、母はとくの間に長男として生まれる。
 祖父は山梨交通電車線となる甲府電車軌道の中心的人物であった
   金丸宗之助
で叔父には県会議長などを務めた
がいる。
 金丸家は、多くの使用人を抱えている裕福な家柄だった。
 西野小学校を卒業の後、旧制甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学するも素行不良により退学、あるいは甲府中の受験に失敗したとも言われている。
 父の友人が校長をしていた、旧制身延中学校(現山梨県立身延高等学校)に入学した。
 1933年に東京農業大学農学部へ入学し、柔道に明け暮れた。

 農大卒業後、旧制身延中学の恩師が校長を務めていた旧制韮崎中学校(現山梨県立韮崎高等学校)で博物(生物学)の教諭となった。
 また、柔道を教えたり野球部の監督もした。
 1938年、徴兵により日本軍に入営。
 軍隊では関東軍電信三連隊第二中隊に配属されて満洲に渡ったが、塹壕で過ごすうちに風邪をこじらせて胸膜炎となった。
 新京(現長春)の病院に入院、内地送還となり兵役免除となった。

 帰国後は茨城県久慈郡(現常陸太田市)の姉夫婦のもとでしばらく静養をした。
 その後に実家に戻り、家業の造酒屋を継ぎ、果樹園経営も行った。
 1941年には大政翼賛会山梨県支部の発足に伴い
   大日本翼賛壮年団
が結成されると翼壮団郡世話人として活躍した。
 翼壮団長で戦後には山梨中央銀行頭取として県政財界に影響力を持っていた
   名取忠彦
の知遇を得ている。
 1943年には山梨県酒造組合常務理事に就任した。
 しかし、戦局の悪化に伴い造酒屋の企業整理命令(70軒ある造酒屋を半分に減らせとする内容)が下された際には、自ら造酒屋を廃業した。
 同業者にも命令に従うよう促した後、軍需産業の溶接に使う酸素をつくる「日東工業」(後の日東物産)を設立した。

 戦後には家業の酒造業において焼酎を造る「中央発酵化学工業」を設立して成功した。
 また、戦前から知遇を得ていた
   名取忠彦
に地場産業振興のためにと勧められ、撤退予定だった
   「福泉醸造工業」
のワイン工場を買収するとともに、会社名を「太平醸造」に改め、このワイン事業でも大きな成功をおさめた。

 造酒屋時代、税務署の「造酒屋は、酒を密造し、税をごまかしている」という態度に怒りを覚え、政治の道を志したという。
 戦後、翼壮団長や在郷軍人会分会長のため、父の康三とともに公職追放となった。
 同じく公職追放となった名取忠彦は台頭する左翼勢力に対して翼壮団時代の同志を集めて「脈々会」を結成し、金丸もこれに参加した。
 1951年(昭和26年)の公選第2回となる山梨県知事選挙においては、保革連合の推薦を受けた天野久が当選するが、名取や金丸は天野を容共分子として敵対した。

 知事就任後に、名取が山梨県総合開発審議会会長として迎えられると、金丸も天野に接近した。 
 1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙では、名取の実兄で天野の推薦を受けた
   広瀬久忠
の陣営の裏選対に際して、選挙活動に従事した。
 選挙後金丸は、山梨県警察の取り調べを受けるが、買収の証拠となる名刺5枚をとっさに飲み込み、起訴を免れたという逸話がある。
 このことがきっかけとなり、金丸は衆議院議員選挙に担ぎ出された。
 その際、「佐藤栄作は将来、必ず宰相になる男だ。選挙をやるなら派閥に入った方がいい」と広瀬に勧められ、佐藤のもとを訪ねた。
 しかし、このときは佐藤に「キミのような中途半端は使いものにならない」とけんもほろろに追い返された。
 金丸は激怒したが、広瀬の取り成しで再び佐藤を訪ね、無事自由民主党保守本流の佐藤派に入った。

 1958年5月の第28回衆議院議員総選挙に、自由民主党公認で山梨県全県区から出馬した。
 トラックの荷台を舞台とする選挙カーで選挙運動をした。
 これ以後も、金丸は、選挙の際、トラックの荷台を舞台とする選挙カーを利用した。

 なお、この選挙活動中佐藤は1回だけ応援に来て北巨摩、韮崎、長坂、白根、櫛形、鰍沢、市川大門、身延にて、応援の選挙運動をした。
 また、学校での友人や教師時代の教え子、自分の会社の者などによる選挙運動も行われた。
 5月22日の投開票で69,354票を得て、トップ当選を果たした。
 しかし、直後の6月24日に、妻の玲子を狭心症で亡くした。

 同期当選には竹下登、安倍晋太郎、倉成正らがおり、彼らと親交を深めた。
 特に竹下とは、自分の長男の康信と竹下の長女の一子を結婚させ親戚関係を結ぶまでになった。
 1960年の日米安保条約改定に関する一連の騒動の際、混乱する国会の中、衆議院議長
   清瀬一郎
を担いで議長席まで運び、会期延長と新安保条約可決へと繋げた。
 なお、この際に撮影された写真がアメリカ合衆国の『ライフ』誌に掲載された。
 その後のアメリカ合衆国連邦政府との交渉の際に役に立ったと、金丸は後に自伝で記した。

 1961年に再婚した際に媒酌人を引き受けてもらったのをきっかけに、佐藤派幹部の
   保利茂
を「政治の師匠」とした。
 1963年に郵政政務次官に就任した。
 1972年1月、金丸は幹事長となった保利の強い後押しを受け、労働大臣に就任した
   塚原俊郎
の後任として自民党国会対策委員長の職に就く。
 だが、その後に行われた自由民主党総裁選挙の際、官僚出身の
   福田赳夫
を支持していた保利の意向に反し、同じ党人派の
   田中角栄
を支持し、田中派結成に奔走した。
 これは、金丸が田中を大変評価していたことに由来する行動といえる。
 なお、保利にはその旨を伝えており、師弟関係が崩れることはなかった。

 田中角栄は、金丸の総裁選での活躍を評価しており、「君には建設大臣をやる」と言っていた。
 第1次田中角栄内閣では、木村武雄に持っていかれてしまったが金丸は国対委員長に留任した。
 第2次田中角栄内閣で念願の初入閣を果たした。
 その際、迎賓館の改修や中央自動車道の工事着手を行った。
 日中国交回復でキッシンジャーの怒りを買い、情報工作でロッキード事件が耳目を集め、田中金脈問題を持ち出して袋叩きにして田中は首相を辞任に追い込まれた。
 続く三木武夫内閣では国土庁長官に就任した。
 また「三木おろし」の気運が高まった際、金丸は三木に衆議院解散を勧めたという。
 しかし、、三木は解散を決断せず、金丸は三木への不信感を募らせたとされる。

 金丸は三木への対抗馬を一本化しなければ三木を下せない以上は福田赳夫でまとめるしかないと考えた。
 ここで、仲がこじれていた保利と福田の関係修復を周旋した。
 三木退陣後は、福田の総裁任期は1期2年のみでその後は大平に禅譲するという「大福密約」の保証人となったとも言われている。

 1976年12月、福田政権のもと衆議院議院運営委員長に就任した。
 同時に保利が衆議院議長となり、師弟で衆議院の表のトップと裏方調整役を担当した。
 1977年11月、福田改造内閣の防衛庁長官に転じた。
 長官時代、「自衛隊が外国に脅威を与えてはいけないという人がいるが、敵に脅威を与えずして何の防衛か」と至極当然の発言を行った。
 また、統幕議長栗栖弘臣の「現状の法制では、有事の際に自衛隊は超法規的行動をとらざるを得ない」という発言に対して、文民統制に反する発言であるとして金丸が激怒した結果、栗栖は自ら辞職せざるをえなくなった。
 後に、栗栖の更迭について「私の原点は出征する私を両親の目の前で殴った憲兵の横暴である。シビリアン・コントロールがいかに大事かということは、習わずとも身にしみている」と回想している。

 長官在任中の1978年、在日米軍基地で働く日本人従業員に対する負担を表明した。
 反発が予想されたため、金丸は「思いやりの気持ちで行うべき」と発言、これが現在に至る法的に問題が残った「思いやり予算」である。
 この年、福田派が総裁再選への流れを作るために「解散風」を吹かせるが、金丸は「大義名分のない解散には反対する。解散が閣議で諮られたら署名を拒否する。」と公言した。
 福田赳夫は金丸を注意するが、結局解散できぬまま総裁選が行われた。
 その後、田中派と同盟関係にある大平が福田を下し、総理総裁の地位に就いた。

 大平政権では2度目の国対委員長に就任している。
 与野党切迫となっていた国会の当時、与党は竹下が委員長を務める衆議院予算委員会において半数を割っていた。
 このため、予算案可決のため金丸は野党の公明党と民社党から修正合意を取り付け。
 しかし、大平首相は予算組み替えを拒否し、委員会では否決させて本会議で原案通り可決させることを指示した。
 このため、金丸ら国対委員の面目が潰された。
 このさなかの1979年3月に保利が死去している。

 1980年5月、憲政史上初の衆参同日選挙が行われた際、「世代交代論」を唱えた。
 これは、四十日抗争を見て、「政治を若返らせねばならない。七十歳・八十歳の派閥の長が指導する時代ではない」と思ったことに由来している。
 この本心は、後述する理由により中曽根康弘の政権樹立を阻止するためだったとされ、これがきっかけで、田中と金丸の仲は悪化し、一方、竹下と親密な関係を築いていった。
 保利から「冷や飯を食って耐え忍ぶ」という政治信念の薫陶を受けた金丸は、政界風見鶏と呼ばれた中曽根康弘の立ち回りを肯定できず、中曽根が自民党総裁になるまでは日本一の中曽根嫌いを自認していた。

 田中が中曽根を総裁に擁立するつもりであることを知った金丸は、「おんぼろ神輿」とまで批判していた。
 しかし、中曽根政権では自民党総務会長―幹事長―副総理と重用された。
 なお、鈴木善幸内閣の末期に開かれた中曽根派と田中派の料亭会合の際に、表向きは和解したとされた。
 しかし、内心は中曽根を生涯嫌っていたが、中曽根は「腹も太いし、三木武吉以来の大物だ」と金丸を評している。

 1984年、側近の小沢辰男を推す田中の意向に反して中曽根総理は金丸を幹事長に指名した。
 翌1985年、田中派内に勉強会「創政会」を結成した。
 この動きが金丸の親戚である竹下を後継領袖とするクーデターであったことを知った田中は猛烈な切り崩しをかけた。
 しかし、創政会発足直後に田中が脳梗塞で倒れたことで創政会の優勢が固まった。

 反対派や中間派の取り込みのために創政会を一旦解散した後、田中派の大多数を吸収して1987年7月に
   独立派閥の「経世会」(竹下派)
を発足させた。
 竹下の総理就任後は金丸が経世会会長に就任した。
 当時はこのような場合に派閥の通称が変更されず、「竹下派の金丸会長」という形であった。
 同年に初当選してから文字どおり二人三脚で歩んできた“金竹関係”だった。
 しかし、頂点を極めた頃から隙間風が吹くようになった。
 総理についた頃から竹下は独自の行動をとるようになり、竹下が連絡を取らないことをなじった金丸に配慮して、その後はたびたび極秘裏に金丸邸を訪れることになる。
 1989年、消費税導入による不人気とリクルート事件が発覚した。
 竹下内閣は総辞職して謹慎し、後継総裁には
   宇野宗佑
が就いた。しかし事前に話を聞かされていなかった金丸は、元総裁の福田赳夫を、高齢ではあるが後継総裁として擁立に動いていた。
 このため面目を失ったうえ、最初に宇野ありきの状態だったことを自虐して、自らを「雇われマダム」と評した。
 宇野政権が1989年参院選の過半数割れの大敗により2か月あまりで倒れた。
 最大派閥の会長である金丸は大きな力を持つようになった。
 宇野の退陣後、ニューリーダーがリクルート事件の影響で出馬出来なくなったため、野党とのパイプを持つ金丸自身も候補に上がった。
 しかし、竹下らの反発で潰され、出馬に意欲的であった
   河本敏夫
に電話して出馬を辞退させた。 
 結局、河本派の
   海部俊樹
が総理総裁に選出された。
 参議院の自民党過半数割れによるねじれ国会において野党との協調が政権運営に不可欠となった状況で、国対族のベテランであり最大派閥経世会の会長たる金丸と、同じく国対族で経世会オーナーの竹下、さらに両者の姻戚で自民党幹事長の小沢一郎の経世会中枢3名の権勢が海部首相のそれを凌駕し、金竹小と称された。
 金丸は竹下派七奉行の中でも特に小沢に目をかけていた。
 1989年8月、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させて小沢の強力な後ろ盾となった。
 しかし、七奉行の中で最年少の小沢重用は橋本龍太郎や梶山静六ら竹下に近い議員の反発を招いた。
 後の竹下派分裂の引き金となった。
 金丸は長く国会対策委員長を務めて日本社会党議員と交流し、社会党との連携で党内対立を制する手法を身に付けた。
 1980年代末から、自民党と社会党を解体、再編成して政権交代する二大政党を作るという政界再編構想を抱くようになった。
 特に「足して二で割る」という絶妙の妥協案は金丸国対とまで評されるほど絶妙なものであった。

 1990年8月、中華人民共和国を訪問して北朝鮮訪問に向けた協力を要請した。
 同年9月には日本社会党の田邊誠らと訪朝団を団長として編成した
 金丸と金日成は、日本語を用いて差しで対談を行ったが、やり取りが文書として残っていない。
 そのため、一体何を話したのかが謎となっている。

 この空白の数時間の間に取り決められたといわれる約束が、日朝の交渉においてしばしば
   「金丸さんが金日成主席と約束した」
という形で北朝鮮側から持ち出されている。
 この会談の冒頭、金日成は金丸に「ご先祖が、わが国から渡られたことは、よく存じております」と話し始めた という。
 1991年10月の自民党総裁選では、当初小沢一郎に出馬を促したが本人が固辞した。
 他派の領袖を擁立することとし、派内の橋本龍太郎が高い一般人気を誇る中で、金丸と小沢は派内の異論を押し切って
   宮澤喜一
を支持した。
 なお、金丸本人は渡辺美智雄支持に最後まで拘った。

 東大出身者以外を露骨に見下す癖のあった宮澤を、金丸はもともと毛嫌いしていたが、宮澤が当時の世論、財界の圧倒的な支持があったこと、経世会と宏池会が長年の蜜月関係にあったことから、渋々宮澤支持に転じたという。
 1992年3月、栃木県足利市で山岡賢次の応援演説中に右翼の銃撃を受ける。
 しかし、弾丸は全て外れ、金丸は命拾いした。
 同年3月25日に世界基督教統一神霊協会教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国した。
 アメリカで脱税により1年以上の実刑判決を受けているため、それまで出入国管理及び難民認定法の規定で入国できなかった。
 しかし、「北東アジアの平和を考える会」という国会議員の会合に出席する名目で
   田原隆法務大臣
から上陸特別許可が下りた。
 法務省入国管理局が金丸から打診があったことを認めた。
 このため、金丸が法務省に対する政治的圧力をかけたのではとの疑惑を生んだ。

 同月31日、金丸は都内のホテルで文鮮明と会談を持った。
 同年の埼玉県知事選挙では畑和の後継を巡り、公示直前で土屋義彦の支持を撤回し山口敏夫を担ぎ出そうとしたため反発を浴びた。
 また、金丸は首都機能移転の推進論者であったといい、反対派の石原慎太郎を強く批判している。
 1992年8月、東京佐川急便事件に絡んで東京佐川急便から5億円の闇献金が発覚した。
 金丸は副総裁を辞任したうえ、東京地方検察庁に政治資金規正法違反を認める上申書を提出した。

 9月に東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。
 刑罰の軽さに批判が大きく、こうした世論の反発の強さから、金丸は10月14日に衆議院議員の辞職願を提出して10月21日付で辞職した。
 また、竹下派会長も辞任した。

 1993年3月6日、金丸は政治資金を流用して個人資産を蓄財し脱税したとして東京地方検察庁に逮捕された。
 検察は金丸が1987年から1989年にかけて約18億4230万円の所得を隠し、10億3775万円を脱税したとされた。
 金丸は捜査段階では罪を認めていたが、保釈後は「政界再編のための資金」として無罪を主張するようになった。
 金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、最後まで裁判を続けるつもりで1ヶ月に1度から2度、裁判のために甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。
 金丸のあまりの体調の悪化を心配する家族の申し出により、1996年3月21日に公判は停止した。
 その1週間後の3月28日に脳梗塞で死去した(81歳没)。
 このため、公訴棄却となった。

    
posted by manekineco at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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